多文化クロストーク
「地域の日本語教室、支援」についてー第1回 地域日本語教室との出会いについてー

3人のプロフィール
アイシャ(日本出身)
- 在住年数
- 24年(日本生まれ、日本育ち)
- 母語
- 日本語とスペイン語(両親はパキスタンとペルー出身者)
- 好きな日本語
- まじ、そうなんだ
- 東京で好きな場所
- ありません
- 好きな食べ物
- ペルー料理(ロモ サルタード) Lomo saltado
- 趣味
- 映画鑑賞、筋トレ、カラオケ、海に行くこと
- 今の仕事
- 県立高校で日本語指導員として勤務
サロワル(バングラデシュ出身)
- 在住年数
- 35年
- 母語
- ベンガル語
- 好きな日本語
- 我慢
- 東京で好きな場所
- 葛西臨海公園
- 好きな食べ物
- 納豆、焼き鳥
- 趣味
- 学ぶこと
- お国での仕事
- 農業
エン(中国出身)
- 在住年数
- 14年
- 母語
- 中国語
- 好きな日本語
- ご馳走様でした
- 東京で好きな場所
- 駒沢公園
- 好きな食べ物
- 肉
- 趣味
- 旅行
- お国での仕事
- サラリーマン
第1回 地域日本語教室との出会いについて
今月から11月までの3か月間、「地域の日本語教室、支援について話そう」という座談会を3回シリーズでお届けします。地域の日本語教室に通ったり、学校の中の日本語教室に通った経験を持つ3人のみなさんに集まっていただきました。第1回は、地域日本語教室との出会いについて話していただきました。
日本語教室をどのように見つけましたか

わたしは中国で結婚して日本に来ました。最初は神奈川県大和市で、夫の家族と一緒に住んでいました。当時は日本語がまったくわからなかったので、日本語学校に入りました。半年ぐらい通い、世田谷区に引っ越ししたので辞めて、ネットで地域の日本語教室を見つけました。10年前くらいですが、当時は今ほど便利ではなく、パソコンで調べて見つけました。
日本に来たのは1988年ごろです。日本語はまったくできなかったです。当時はボランティアで日本語を教えるところはあまりなかったように感じます。週4~5回、町に日本語教室を探しに行っていました。
わたしが通っていたのは学校の中にある教室で、みんなが授業を受けているときに日本語教室がありました。日本語の先生が外部から来てくれて教えてくれました。
国際教室というようなものですか。
国際教室と、それとは別に、日本語教室がありました。学校の中だったので、日本語の教室は週1回、国際教室は週に3回くらいあったと思います。みんなが普通に授業を受けているときに、先生と1対1でゆっくり勉強します。国際教室の先生は変わりましたが、日本語の先生はずっと同じ先生でした。
日本語教室に通ったきっかけと理由について

家から一番近い教室に通いました。わたしの住んでいた場所には、日本語教室はそこしかなかったんです。
仕事が終わって買い物をするために駅の周辺に行ったら、日本の方が「一緒に勉強どうですか」と、日本語教室のチラシを配っていたんです。日本語はわからなかったですが英語も書いてあったので、「参加したいと思います」と言いました。それが1993年で、初めて日本語教室に入りました。
わたしは小学校1年生のときに先生から日本語教室に行ってくださいと言われて行くようになりました。パキスタン出身の父とはずっと日本語で話していたのもあって、当時も日本語が話せたんですけど、行くと楽しかったので、中学3年生までの9年間、同じ先生に教えてもらいました。
日本語が上手なのに、日本語教室に行くように言われたんですか。
特に必要はなかったんですけどね。小学校に入学したときに、日本語のチェックをしてくれたらよかったのにと思います。でも、楽しかったのと、いろいろ勉強になりました。
息子も国際教室に行きましたが、4年生くらいで必要がなくなったらもう大丈夫よ、と言われます。でもいろいろな国の子どもたちがいるので、楽しいですよね。
外国ルーツの子どもたちで、学校の勉強についていけない子はたくさんいるんですよね。
母が希望していたこともあって、4~5年生のときに普通のクラスに戻ろうとしたのですが、国語の授業がわからなかったです。国際教室では、国語が取り出し授業だったんです。国際教室では教科学習がゆっくり進むので、普通学級の勉強にはついていけないなと思いました。
教室の印象はどうでしたか

日本語学校は若い人が多かったです。教科書で勉強をして、進むペースも早かったです。わたしは日本語がまったく分からなかったので、大変でした。半年間通ったのですが、引っ越ししたため、日本語学校はやめて、地域の日本語教室に通いました。 日本語教室の勉強する雰囲気はとてもよかったです。土曜日のクラスなので、サラリーマンが多かったです。留学生や外交官の人もいました。先生たちはたくさんのことを教えてくれました。
1993年に初めて教室に行ったときは、日本語が話せないのでものすごく緊張していました。先生が何を言っているのか、どうコミュニケーションをとっていいかわからないんですよね。あの頃は英語もほとんどできなかったので、すごく苦労しました。ひらがなから勉強して、家に帰ってもいろいろなところに文字を書いて貼っていました。トイレとかお風呂場などに。1対1だと僕ができないから進まないんですよね。中国や韓国出身の人と3~4人のグループになって、工夫しながら一生懸命勉強しました。漢字などもグループの人に聞いたりして説明してもらいました。
日本語を頑張ろうと思ったモチベーションはなんですか。
会社で働いていて誰とも話せないのは、つまらないんです。何を言っているか分からないことが嫌だから、日本に慣れるためには日本語を習得しないと駄目だと思って。
それはよくわかります。わたしも日本語がゼロからのスタートだったので。
日本語ができないと、仕事をしてストレスを抱えて家に戻ってくる。その繰り返しです。週に1回の日本語教室では足りないから、仕事を終えた後に渋谷の教室へ行ったりと週に4~5回いろいろな教室に通いました。すごく頑張りました、とにかく日本語で話したかったですから。
どういう形で勉強していましたか

日本語学校で使っていた『みんなの日本語』の教科書を持って行きました。
先生が最初に何を勉強したいですかって聞いてくれたので、自分のペースでできるところがよかったです。半年で先生が変わるので、教え方は先生によって違います。今まで合わない先生はいなかったです。みなさん優しかったです。4~5年通ったのですが、また引っ越ししたのでやめました。先生とは今でも連絡をしていて、たまにランチをしています。先生と友達になったんです。
日本語教室の教科書もあったのですが、先生の勧めで新宿の紀伊国屋へ行って自分の本を買ってきました。それがきっかけで、世界がぐっと広がりました。僕は1993年に地域の日本語教室に通い始めて、1998年には葛飾区役所が日本語教室をつくるために、日本語ボランティア養成講座を始めたんですよね。今度はそちらの講座にも通い始めたんです。そこで妻とも出会いました。日本語がだいぶできたころです。そのときは僕はまだ教えていなくて、上級者として習う方でした。勉強が終わったらみんなでご飯を食べに行ったり、カラオケに行ったりしました。勉強の上達のきっかけは、こうした交流だったかもしれません。
わたしの教室ではランチはしましたけど、カラオケまでは行かなかったです。サラリーマンが多いので難しかったのかもしれません。
お二人とは違いわたしは子どもだったので、みんなでいろいろな国の料理を作ったりしていました。とにかく日本語教室が楽しくて、国際教室はやめて日本語教室だけは行く感じでした。小学1年生から中学3年までずっと同じ先生で、楽しい教え方なのでまた行きたくなるんです。先生との距離も近く、仲がいいです。
母も日本語教室に通っていたんですよ。母の仕事場は南米の方が多かったのでほとんどがスペイン語で、最低限の日本語は使うという環境だったからです。
1993年から通っている「アジアと交流する市民の会」は、今でも通っています。僕は日本語ボランティア養成講座を2回受けて、いまはボランティアで教える側として通っています。中国、パキスタン、バングラデシュ、アメリカの方たちに、日本語で日本語を教えるようにしています。
日本語教室で日本語を学んだ3人ですが、教えてくれた先生たちにとても感謝しているといいます。日本語教室は、日本語だけでなく、文化の違いなど生活で分からないこともすぐに聞くことができるといいます。
次回は「地域日本語教室という場所について」話していただきます。
── 次号へ続く